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【読書ルーム(154) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 6/9 (シラード)】

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【本文】

シラードは生物学に転向した後も預言者を止めはしなかった。シラードは機会がある毎に走り、平和の必要性を説き続けたが、その方法はオッペンハイマーが試みて挫折したような政治に接近する方法でもなく、水素爆弾の開発に闇雲に反対することでもなかった。


イシドール・ラバイや生前のエンリコ・フェルミと同様、シラードは科学の限界に挑戦したいと思う科学者の限りない欲求を前提とし、そして核兵器に限らず、化学兵器生物兵器が実証精神の発露から、あるいは単にモノを作りたいという人間一般の欲求から作られてしまうことはしかたがないことだとシラードは考えた。ただ、大量破壊兵器を使用する最終的な決定さえ行われなければいいのだとシラードは考えた。シラードにとって、広島と長崎への原子爆弾投下を言論の力で阻止できなかったことは一生に悔いを残す不覚であり、二度とこのようなことを繰り返させてはならないと固く心に誓っていた。オッペンハイマーの解任はシラードにとって手痛い出来事だったが、一九五一年に中国本土を核兵器で攻撃することを主張した共和党最右翼のマッカーサー将軍が解任されたように、一条の光も見えていた。シラードは他の大多数の科学者たちと同じく、テラーが公聴会でとった行為には反感をもっていた
が、そのテラーとシラードが交友関係を保つことができたのは、テラーと同じハンガリー出身のシラードがテラーが抱いていた社会主義に対する反感と生まれ育った祖国ハンガリーに自由を求めるテラーの心情を理解できたからだった。


「良心のある人間ならば、核兵器が自分の頭上で炸裂するのを恐れる気持ちと同じくらいに強く、核兵
器を使用したくない、できるならば人を殺したりしたくないと考えている。それが全ての基本なのだ。」とシラードは考えていたが、そのシラードが自分の考えを他国の人々と確かめ合う機会が一九五七年の夏にやってきた。


カナダのノヴァスコシアで開かれた、平和維持の方法について語り合う国際会議ではシラードを含む各国の代表から平和維持に関する活発な意見が出され、この会議で採択された事柄にはワシントンDCとモスクワを結ぶホットラインの開設、核兵器開発規模の縮小と核兵器保有を漸次逓減させることなどが提唱された。これらの主張がシラードのものであるのかどうかは、フランク・レポートの真の起草者と同様で明らかではないが、この国際会議で決定されたことの全ては平和主義者で発明家でもあったシラードが考え出すかあるいは熱っぽく支持しそうな内容だった。


一九六○年、「異なる意見を持ちながら、交友関係を保っている、マンハッタン計画に貢献した科学者の二人。」と目されていたシラードとテラーはテレビ局に要請されて平和維持に関する討論番組に出演した。二人だけでいる時には母国語のハンガリー語で話す二人はテレビ・カメラの前では当然のことながら英語で激論を戦わせた。


「シラード教授はソ連を無責任なほど信頼しています。」とテラーが言ったの対し、シラードは「テラー教授は無責任なほどソ連のことを疑ってかかっています。」と切り返し、放送スタジオを埋め尽くした視聴者からは拍手と笑いが起きた。二人の議論は平行線をたどったが、番組の終わりに「握手をしましょう。今握手しておかないと、もう握手する機会がないかもしれませんから・・・。」と言ってテラーに手を差し出したシラードの毒舌も視聴者の笑いを誘った。核兵器保有をめぐって相違する意見を激しく戦わせながら、一九三九年にはフェルミの学問に対する自由な考え方にこぞって反対し、大統領に訴えるための書簡を携えてアインシュタインのもとに車を走らせた二人は、フェルミが一生涯追求し続けた「科学知識の万人による共有」の理念を期せずして実現していた。

(続く)

 

【参考】

レオ・シラード (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89?wprov=sfti1