かわまりの映画評と創作

読書ルームではノンフィクションと歴史小説を掲載

ひと休み (その1)

二作目の「黄昏のエポック」の連載も中間地点を過ぎましたが、疾風怒濤のような主人公の生涯を順不同(実際はそのつもりではないのですが)に描いて主人公の創作と活動の分枝点となった1816年の出来事と人生の方向を決定づけた東方への卒業旅行を描いた後の第五話は間奏曲(インテルメッツォ)かもしれません。少なくともこの挿話には隣家のチョワーズ家の呪いの他に読者の気持ちを揺さぶる要素はないと思います。

 


わたしは常々、仕事にはこの世に於いて日々の糧を得るためのものとその成果をあの世に持っていけるものとがあると思っています。その両方を一度に手に入れられる人が少なくとも仕事について幸せな人に違いないのですが、「黄昏のエポック」バイロン郷は貴族でもあり、大伯父から受け継いだ領地からの小作料を生活の糧とし、10代の頃から自己実現の手段とは切り離していたようです。では10代で目覚めた詩作の才能はどうかというと、少なくとも当初は自らの天職だという認識はなく、ノエル子爵家の令嬢との婚姻と破局によって得た莫大な資産とそこからの収益を得た彼の人生の後半においても詩作を(卑近な言い方をすれば)メシのタネではありませんでした。では詩作を除いてバイロンは何が自分の転職だと考えているのかと言えば、それは社会改革ではないかと思われるのです。そしてバイロンは第二話で描かれたような残酷な経緯で妻と愛娘からだけではなく、イギリスの政界からも引き裂かれてしまうわけですが、第五話から第七話に至る三つの挿話ではバイロンがロマン的な詩作と社会改革の両者に邁進する姿が描かれます。

 


俳優が舞台や映画重要な役柄を演じて自分の演技がストーリーにぴったりハマって観客に明らかに感銘を与えた時と役をもらってギャラが決まった時はどちらも嬉しいでしょう。医師がもう駄目かと思った患者に治療を施してその患者が完全に健康を取り戻した時と給与明細を受け取った時はどちらも嬉しいでしょうが、この2つの例ともに前者は〇〇やって冥利に尽きるというべきもので後者がもたらす喜びとは質が違います。こういったひとつの行為や努力で2度喜びを得る幸せな職業人は他にも色々あるでしょうが、残念ながらバイロンはそうではなかったようです。とはいうものの、学生時代から(おそらくですが)五千冊の書物を読破することを目指していたバイロンは詩作だけではなく散文でもある程度の才能を発揮し、彼の議会貴族院での演説はイギリス議会史でのトップ10に挙げられる名演説とされています。ですから、ウィキペディアバイロンの項目(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3?wprov=sfti1)では彼が随分と放埒な青春時代を送ったように書かれていますが、むしろ自分と自分の知力の限界に挑んだ強力な努力と集中の反動としてある程度ハメをはずすこともあったのだろうとわたしは推測しています。またバイロンは未成年から貴族の特殊な地位にあり、今とは異なり大学入学後成年に達した時からケンブリッジやオックスフォードのような一流大学では貴族の当主である学生は出席日数や期末試験の出来不出来に関わらず学位が授与されたようです。また腹違いの姉オーガスタとの関係もオーガスタが侍女として王室の人々にどれだけ信頼されていたのか、或いは彼女の知性や度量を鑑みた場合、ある程度抑制されたものだったと思います。

(続く)