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【読書ルーム(46) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【かわまりの読書ルーム『プロメテウス』第2章  新時代の錬金術師たち〜一時代の終わり 1/4 】

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【本文】

一九三三年、ベルギーで開かれたソルヴェイ物理学国際会議に物理学界の重鎮と新進の科学者たちが

勢ぞろいした。ドイツ人の科学者が最も多く、フランスとイギリスの科学者がこれに次いでいた。北欧の小国デンマークからは理論物理学の巨星ニールス・ボーアが、そしてルネッサンス以来の科学の輝かしい伝統のあるイタリアからは若いエンリコ・フェルミが参加した。アメリカ人で会議に招待されたのは一九二九年に電子を加速する装置サイクロトロンを開発し、今後の物質の核心の探求に多いに資するのではないかと期待されているカリフォルニア大学バークレー校のアーネスト・ローレンスだけだった。アメリカに逃れたばかりのアインシュタインは出席しなかった。集まった科学者たちの大半は男性だったが、フランスとドイツから来た二人の女性科学者が女傑といっていいような威容を誇っていた。言うまでもなく、この二人はポーランド出身でパリから来たマリー・キューリーとベルリンか

ら来たオーストリアリーゼ・マイトナーである。年齢ではマイトナーよりも十歳ほど年上のマリー・キューリーはマイトナーと一度も言葉を交わさないばかりか、視線を合わすことさえ避けた。マリー・キューリーが第一の祖国ポーランドと第二の祖国フランスの両方と敵対することの多かったドイツを嫌っていることは容易に推測できた。また、アインシュタインに会った時の冷淡な態度からマリー・キューリーはユダヤ人に対して偏見を持っているのではないかと噂されていた。リーゼ・マイトナーはベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所に採用されながらも婦人用のトイレが研究所内にないこと

から実験室の使用を許されず、同研究所に就職した後しばらくの間、ハーンとともに研究所外のバラックを改造して実験室としたこともあった。そして、ポーランドからほとんど身一つでフランスに出てきて地位を築き上げたマリー・キューリーがリーゼ・マイトナーのそのようなたくましい研究者根性に自分と共通する要素を見出して激しい競争心を感じていても不思議ではなかった。しかし、マリー・キューリーがリーゼ・マイトナーに対して反感を覚える理由は何と言っても、二年前に放射線を人工的に惹起することに成功し、物理学者の間で一躍名を高めた娘のイレーヌと娘婿のフレデリック・ジョリオが、安定した物質であるアルミニウムに放射線を照射して得られた画期的な結果を学会で発表した

のに対し、マイトナーが「私は同じ実験で違う結果を得た。」と異論を唱えたことである。

 

マイトナーの主張に対し、ニールス・ボーア、ラザフォードなどがイレーヌ・キューリーとフレデリック・ジョリオの夫妻に個人的に歩みより、実験の成果を称えた。この時点で間違っていたのはマイトナーだったのである。しかし、科学的かつ客観的な意見とは別に、イレーヌ・キューリーとフレデリック・ジョリオの夫妻、とりわけイレーヌ・キューリーには著名な両親の影が常につきまとっていた。どんな成果を挙げても両親の業績を離れては評価されないのではないかという想いがイレーヌ・キューリーの心情を屈折させていた。しかし、科学上の業績が正当に評価されるか否かは時間の問題である。科学史上でもX線解析によってノーベル賞を共同受賞したブラッグ父子や電子を発見してノーベル賞

を受賞したJ. J.トムソンと電子の波動性と回析を研究してノーベル賞を受賞した息子のジョージ・トムソン、ニールス・ボーアと息子のアーゲ・ボーアなど、親子で活躍した例はキューリー母娘だけにはとどまらない。会議の最後に物理学者たちはマリー・キューリーを囲んで集合し、記念写真に納まった。ノーベル賞の創設の数年前からX線や放射線の発見によって物理学に新たな展望をもたらしたパイオニアの中で存命しているのはマリー・キューリーだけになっていた。ドイツから会議に参加したリーゼ・マイトナーがこのマリー・キューリーを鋭く見つめる横顔が写真に残された。写真の中央に位置する六十五歳になるマリー・キューリーは白髪の老婆で男性と変わらない地味な服を身につけている。マリー・キューリーの娘イレーヌは若い頃の母や妹のイブほどの美貌には恵まれなかったが、地味好みの母とは対照的で、学会には似つかわしくないような派手な縞模様のブラウスを身につけている。その他

の男性の参加者たちはそれぞれが人と成りがにじみ出る表情と姿勢で写真に収まっているが、写真の中での各人の位置が記念撮影の準備が整うまで、物理学者たちが三々五々集って交換していた意見の内容を彷彿とさせる。

 

すなわち、デンマークのボーアはフランス人のイレーヌ・キューリーの隣に席を占め、リーゼ・マイトナーによる鋭い追及を受けた彼女をボーアが励ましていたことを想像させる。また、隣同士で立って写真に収まっているイタリアのフェルミとドイツのハイゼンベルクは学位取得後に共にゲッチンゲン大学でマックス・ボルン教授に師事したので、記念撮影の前に同窓生としての会話を交わしていたか、理論の進展に関する意見を交換していたと思われる。この他で、写真に納まっているイギリスのラザフォードとチャドウィック、フランスから来たルイ・ド・ブロイとイレーヌ・キューリーの夫のフレデリッ

ク・ジョリオ、アメリカのローレンスなど、この国際会議に集まった全ての物理学者たちのうち、年配のマリー・キューリーとラザフォードを除く全員がこの後、自らの力では如何ともしがたい運命に翻弄されることになるのである。ただし、この年のソルヴェイ会議の記念写真にはすでに運命にもて遊ばれた何人かの物理学者とこれらの物理学者らと運命を共にする化学者たちの姿は留められてはいない。前者に属する物理学者は、ナチスに追われてアメリカに亡命したアインシュタインやジェームズ・フランクらであり、後者の例はマイトナーの共同研究者である化学者オットー・ハーン、そしてアメリカ人として唯一会議に出席したローレンスの教え子で一九四○年代の始めまでに正真正銘の錬金術師に成長するグレン・シーボーグである

 

翌年一九三四年の五月、白内障を病んで身体の衰弱が著しかったマリー・キューリーは次女イブに付き添われてパリを去り、アルプス地方の結核療養所に治療に向かった。療養所での診察の結果、マリー・キューリーの体の衰弱の原因は結核ではなく貧血だけが原因であるということが判明した。従ってマリー・キューリーは結核療養所に滞在する必要はなかったのである。しかし彼女が生きてパリの研究所に戻ることはなかった。マリー・キューリーはもはやパリまでの帰途の旅が不可能なほど衰弱していたのである。二ヶ月後、マリー・キューリーはアルプス地方の結核療養所で亡くなった。
母と姑であり、師でもあるマリー・キューリーの死亡にも関わらず、その遺志を継いで放射線発生のメカニズムと物質の内奥の秘密を探ることを使命としたイレーヌ・キューリーとフレデリック・ジョリオの夫妻には悲しみにひたっている余裕はなかった。二人は実験を重ねその年の初めには、原子番号十三番のアルミニウムにアルファ線を照射することによって原子番号十五番の燐が生じるという画期的な結果を導いていた。二人の研究成果によって、不変であると考えられていた元素を放射線照射によって変換することは目前の可能性であるかのように思われるようになった。しかし、イレーヌ・キューリーとフレデリック・ジョリオがアルミニウムにアルファ線を当てることによって生成した燐は天然に存在する安定した燐の同位体とはほど遠く、電子を放ちながら瞬く間に原子番号十四番の珪素に変ってしまうような不安定な物質だった。放射線を用いた錬金術に手が届かないまま、一九三四年の秋にジョリオ=キューリー夫妻は放射線を人工的に発生させた二年前の功績によってノーベル化学賞を受賞し、その翌年には中性子の存在をつきとめたチャドウィックがノーベル物理学賞を受賞した。

 

【参考】

ジェームズ・フランク (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF?wprov=sfti1

 

ルイ・ド・ブロイ (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%A4?wprov=sfti1

 

オットー・ハーン (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3?wprov=sfti1

 

ジェームズ・チャドウィック (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF?wprov=sfti1