【読書ルーム(39) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】
【かわまりの読書ルーム『プロメテウス』第2章 新時代の錬金術師たち〜科学の教皇が旧大陸を去る. 6/8 】
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【本文】
一方、一九二二年にわずか七ヶ月の間ではあったがゲッチンゲンのマックス・ボルン教授の下で理論物理学を学び、その後イタリアに帰国したエンリコ・フェルミはイタリアの学会を驚かすような卓越した理論物理学の論文を次々と発表して二十八歳の若さでローマ大学の終身教授の地位についた。フェルミはジョリオ=キューリー夫妻の研究成果とチャドウィックによる中性子発見の知らせを受け、電磁気の影響を受けない中性子を照射することによって物質の核心である原子核の内部を探ることができるのではないか、あるいは原子核の内部を中性子の照射によって変え、中世以来数知れない錬金術師たちが夢見てきた物質の転換ができないものかと考えた。もちろん、鉛を金に変えるといったような直裁な利益に結びつく物質の転換をめざしたのではない。フェルミは現象を説明するためと言いながら抽象的な思考にのめり込んでいく傾向があったゲッチンゲン大学を中心とする理論物理学には飽き足らず、コロンブスがアメリカ大陸を望見したように、実証によって新しい地平線を望見することを願ったのである。
フェルミがゲッチンゲン大学のマックス・ボルン教授のもとで理論物理学を研究した一九二三年前後にはボルン教授と理論を重視するミュンヘン大学のゾマーフェルト教授らの学風に染まったハイゼンベルクが無名ながらもすでに量子力学に新しい視座を開こうとしていた。フェルミはドイツ語=に堪能で、またボルンやハイゼンベルク、あるいはゲッチンゲン大学物理学科の主流派が目指していることも完全に理解することができた。しかし、フェルミは不思議とゲッチンゲン大学の学問姿勢に積極的に賛同もしなければ反対を唱えることもなく、ゲッチンゲン大学出身者とのその後の交友関係もゲッチンゲンに留学中に得られたというよりも、それぞれがゲッチンゲンを去って物理学者として成長する過程で育ったようである。あるいはフェルミはそれらの純粋に理論的な議論に参加し、新しい視座を開くような理論を自分で打ちたてようとは考えなかったのかもしれない。少なくとも、観念的な議論を好むゲッチ
ンゲン大学の物理学者はフェルミの真価を理解するような姿勢を持ち合わせてはいなかった。フェルミはあくまでも、ガリレオ、トリチェリからボルタに至るまでのイタリア人科学者の輝かしい伝統を継承し発展させようとする実証主義者だったのであろう。しかしながら、ゲッチンゲン大学への短期間の留学によってフェルミは理論物理学の上でも画期的な足跡を残した。それは、量子の運動を把握するために編み出した統計理論だった。フェルミが統計理論を発表したほんの数週間後、イギリスのディラックがフェルミと同じ思考過程を辿って量子を把握するためには特別な統計が必要であると感じ、全く同じ理論をそれと知らずに学術誌に発表したのである。
ディラックが全く同じ理論に逢着したことによってフェルミの理論の妥当性が再確認されたわけであるが、実証主義の発祥の地イタリアと経験論の総本山イギリスの二箇所でほとんど同時に考案されたこの統計理論は、二人の理論物理学者の名誉を共に留めるため、フェルミ=ディラック統計と命名された。フェルミとディラックが考案した統計理論は、二人に共同でノーベル賞を授与してもよいほど画期的なものだったが、二人のノーベル賞共同受賞は実現しなかった。なぜなら、一九三三年に、ディラックとシュレジンガーがそれぞれコペンハーゲン学派とアインシュタインの陣営を代表し、微分方程式を用いて量子力学へ波動性を導入した業績によってノーベル物理学賞を共同受賞したからである。
【参考】
ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック (ウィキペディア)
マックス・ボルン (ウィキペディア)
【解説】
アインシュタインがアメリカに渡った後にもアインシュタインが生まれ育ったドイツ語圏以外でのヨーロッパでの科学者の活躍の記述は続きます。本セクションと次のセクションではヨーロッパで生まれて原子力開発に携わった科学の中で最も波乱に富んだ人生を送ったイタリアのフェルミの活躍について述べます。