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【読書ルーム(127)  プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第5章  マンハッタン計画 (下) 〜 終わりの始まり 1/2  】

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【本文】

病弱をひた隠しにして一九四四年秋の大統領選挙でアメリカ史上初の四選を果たしたルーズベルト大統領がドイツが降伏する約三週間前の一九四五年四月十二日にジョージア州の別荘で急死した後を受け、同日に急遽アメリカ合衆国第三十三代大統領としての宣誓を行って執務を開始したトルーマンは、大統領就任後間もない四月二十四日に受け取った戦略協議のために設置された諮問委員会による提案書に何度も目を通した。提案書の内容は次のようなものだった。


「連合軍の日本本土への上陸は、継続的な経済封鎖と本土の主要都市に対する十分な爆撃の後に行われるべきです。上陸地は九州と関東平野であり、前者への上陸予定日は一九四五年十一月一日、後者への上陸予定日は一九四六年三月一日前後です。必要とされる陸海空軍の兵力は二百七十万人です。」
トルーマンがこの提案書を受け取ったのはドイツの降伏が目前だった時だったが、そのドイツは今や降伏し、日本だけが未だに世界中を相手取って戦い続けていた。
前年、大統領選挙を数ヶ月後に控えた六月六日、ヨーロッパ戦線の総指揮を取っていたアイゼンハウアー将軍がノルマンディー上陸の奇襲作戦を成功させ、連合軍はたちどころにナチス・ドイツからパリを奪還した・そして年初にはドイツ国内に侵入してナチス・ドイツの軍隊を一つづつ制圧し、ルーズベルト大統領が死去した時には首都ベルリンの陥落は目前だった。
「しかし、日本に対してはドイツと同じ方法でよいのか?」とトルーマンは四月二十四日に諮問委員会から提出された提案書に目を通しながら考えた。日本の戦闘方法や日本人の行動様式が西洋の歴史に記録されてきたものと異なることは太平洋戦争初期から予期され、文化人類学者のルース・ベネディクトなどが日本人の行動原理を解明しようと努力を重ねてきた。しかし、敵としての日本人の恐ろしさを最も顕著に見せつけられたのは一九四五年の二月終わりから三月の始めにかけておきた硫黄島の攻防戦においてだった。


東京から南南東千二百キロの太平洋上に浮かぶ硫黄島を日本本土を攻撃するための基地として接収するために、アメリカは海兵師団六万一千名をこの島に派遣した。迎え撃った栗原中将以下二万一千余名のうち生き残って米軍の捕虜となったのはたった一千余名であり、残りの約二万名は戦死するか自決を遂げた。アメリカ側の被害も甚大で、海兵師団六万一千名のうち半数近い約二万九千名が死傷し、このうち約六千名が戦死した。ドイツ兵は味方の敗色が濃くなると白旗を挙げて降伏し、捕虜として一時の恥辱を忍んでも故郷に残る家族らのために生き延びて再起を図ろうとするのが常だったが、日本兵の行動様式はドイツ兵のそれとは全く異なっていた。

 

日本本土の南西に浮かぶ沖縄に、アメリカ戦争史上未曾有の五十五万人の兵力が投入されたのは一
九四五年三月だった。しかし、急遽組織された学生を主とする防衛隊を入れても十万人しかいない弱小な日本の兵力で守られたこの小島は、三ヶ月たった六月始めにおいて、数千人のアメリカ兵の戦死者と数万人の日本軍の戦死者、そして実数をつかみきれないほどの住民の死傷者を出しながらいまだ陥落していなかった。
「日本を降伏させるのに、ドイツと同じ方法を取ってもよいものだろうか?」と大統領や軍事省長官スティムソンの疑問は深まった。


日本を降伏させるためにアメリカが、イタリアやドイツに対して行ったような形で日本本土に攻め入らなければならないとすれば、どう甘く見積もっても九州を制圧するだけで約二十五万人の米兵が死傷し、四国か中国地方を制圧地域に加えるためには約五十万人の死傷者を覚悟しなければならないと推定された。アメリカ陸海空軍併せて二百七十万人が人口密集地帯である関東平野に投入された場合、日本の降伏までに生き残れる兵士はそのうち何割を占めるのか、そしてその間、死傷するのは米兵だけではない。米兵に必死に抵抗して死傷するか、あるいは居住地のアメリカ軍による制圧を知って自殺する日本の非戦闘員は米兵の死傷者の何倍になるのか、全てが想像を絶した。内に向かっては温順で礼節を知る日本人は未知の外敵に対峙した時には恐るべき修羅に変貌するのである。トルーマンは戦後ドイツ処理方法に対しては明確な方針を持ちながらも、未だに抵抗を続ける日本への対応には苦慮しながら七月十六日にドイツ、ベルリン郊外のポツダムに向かった。六月下旬に一応の終結をみた
沖縄戦での米兵の犠牲者は一万二千人を超え、日本側では牛島満司令官以下の正規軍全員のほぼ全員と
現地で組織された学徒一万余名の計九万人の戦闘員に加えて沖縄の一般市民約二万人が命を失った。
英首相チャーチルソ連の最高指導者スターリンとの会談ではもはや方向が定まっているドイツ占領の方針よりもアメリカが苦戦している日本を無条件降伏させる手段に議論が集中した。トルーマンルーズベルトが死去した直後に諮問委員会から渡された提案書の内容を繰り返すだけだった。


「日本列島の経済封鎖と都市部の間断ない爆撃によって日本の体力を十分に弱めた上で本年十一月
に九州に上陸、来年三月に関東平野に上陸。投入される兵力は二百七十万人。」
トルーマンは提案された内容を繰り返したが、今までにアメリカが日本に対して行ってきた経済封鎖と都市部の爆撃だけでも降伏させるのに十分なほど日本は窮乏し、荒廃しているはずなのに、未だ日本が降伏せずに日米両軍の兵力と日本の一般市民の生命が日々失われているという事実は対日戦争に直接関わっていない欧米人政治家の理解に余りあった。


軍事省長官スティムソンとマーシャル将軍らは、アメリカ山岳標準時七月十六日未明にプルトニウム爆弾の爆破実験が成功するとほとんど間髪を入れずにトルーマン大統領に実験の成功を告げたが、爆破の威力などの詳細に関しては七月二十一日になって大統領に報告を行った。八月四日のアメリカへの帰国を前にして大統領はスティムソンとマーシャルに大きな決断を告げ、まず一枚岩ともいうべき信頼関係を築いていたチャーチル原子爆弾の使用によって戦争が予定よりも早く終結する可能性を語った。チャーチルは「これで大多数の日本人は名誉を失うことなく降伏することができる。」と原子爆弾の完成を素直に喜んだ。トルーマン大統領がスターリンに戦争の早期終結の可能性について告げたのは七月二十四日だった。それを聞いたスターリンは爆弾の威力などに関しては一切質問をせず、ただ意味ありげな喜びの表情を浮かべた。トルーマンチャーチルスターリンの表情はアジア戦線における参戦の必要がなくなった安堵を意味しているのだと思ったlxxxi[30]。

(続く)

 

【参考】

ハリー・トルーマン (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3?wprov=sfti1

 

ヨシフ・スターリン (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3?wprov=sfti1