かわまりの映画評と創作

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【読書ルーム(50) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【かわまりの読書ルーム『プロメテウス』第2章  新時代の錬金術師たち〜赤ん坊は難を逃れる 】

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【本文】

一九三八年になるとカイザー・ウィリヘルム研究所に残って研究を続けていたユダヤ人女性物理学者リーゼ・マイトナーにとって状況はもはやのっぴきならない様相を呈してきた。すなわち、三月十二日にナチス・ドイツオーストリアを併合し、それまでオーストリア国民だったマイトナーは事実上ドイツ国民となり、マイトナーが所持していたオーストリア政府発行のパスポートは無効となり、ユダヤ人であることが直接的な身の危険となったのである。それ以前からマイトナーをベルリンに引き留めていたのはただ、ハーンと協働で研究していた中性子線照射の化学的帰結に対する学問的関心だけだった。マイトナーが受け取る給与にはナチス政府の監査をかい潜ることのできる特別な源からの収入が当てられていたが、オットー・ハーンはマイトナーとの共同研究を続けたい思いを振り切り、マイトナーの身の安全を最優先に考えて重い口を開いてドイツからの逃亡を彼女に勧め、マイトナーは六月になってこれに応じた。
ハーンの尽力によってマイトナーはオランダの大学で一年間の契約で物理を講義することになり、オランダ人の物理学者コスターがパスポートなしに国境を越える手段を考え出してマイトナーの逃亡の手はずを整えた。逃亡の前日、計画を知るのは本人のマイトナーの他にはハーンとコスターの二人だけだった。オランダへの逃避行の前日、マイトナーは計画を知られないように平然をつくろって研究所で実験を行い、ハーン夫妻の自宅で最後になるかもしれないドイツの一夜を過ごした。ドイツ・マルクの持ち出しは十マルクまでしか許されていなかったのでハーンは何かの場合に役立てるようにと亡くなった母親から譲り受けたダイヤモンドの指輪を妻の目前でマイトナーに贈った。


ベルリン駅にマイトナーを迎えにきていたコスターは計画を察知されないよう、ハーンに会うこともカイザー・ウィリヘルム研究所を訪ねることもなかった。商人の妻に身をやつして逃亡するマイトナーの背後には中性子線照射によって作り出された未知の物質があり、マイトナーは後ろ髪を引かれる思いでベルリンを去ったが、汽車に乗り込んでからドイツとオランダの国境を首尾よく越えるまではゲシュタポに見つかって正体を暴かれるのではないかという恐怖だけがマイトナーとコスナーを支配した。
マイトナーとコスナーを乗せた汽車が目的地であるオランダのグローニンゲンに到着すると、コスナーは直ちにハーン宛に電報を打った。
「赤ん坊は無事到着。」
マイトナーは一年契約の講義と研究を行いながらオランダ国内での契約更新の可能性を探したが満足な
結果は得られず、替わりにスエーデンの王立アカデミーから就職の誘いがあった。スエーデンのストックホルムアインシュタインと並ぶ理論物理学の双璧ニールス・ボーアが住むコペンハーゲンと距離的に近く、ボーアと連絡を取り合うことが容易だったので、マイトナーはこの申し出を快く引き受けた。マイトナーは幸運だった。マイトナーがもしオランダに留まっていたならば、三年後の一九四二年にはオランダ国内の他のユダヤ人と同じく、マイトナーは強制収容所、ひいてはガス室へと送られていたかもしれなかったのである。こうしてベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所放射能研究部の重鎮リーゼ・マイトナーはドイツを去って中立国のスエーデンに渡ったxxii[6]。

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【参考】

リーゼ・マイトナー (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC?wprov=sfti1

 

オットー・ハーン (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3?wprov=sfti1