かわまりの映画評と創作

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【読書ルーム(112) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第4章  マンハッタン計画 (上) 〜 連合軍のお尋ね者 1/4 】

 

【あらすじ】

不確定性理論や量子力学素粒子論など、科学史上に輝かしい足跡を残したハイゼンベルクの人生はドイツ歴史に於いては恥辱の記録だったかもしれない。ただ、音楽を共通の趣味として夫人と結ばれ、5人の子供を育んだ円満な家庭に恵まれたことは幸運だった。ただ同じ年(3か月の差)で同じく科学の業績と家庭の両方に恵まれたフェルミとはある意味対照的な人生である。

 

【本文】

四月十九日、フランス軍がシュトラスブルグ(現在のストラスブール)郊外の繊維工場にしつらえられたハイゼンベルクの研究所に迫っているという情報を耳にし、ハイゼンベルクはもはや研究所を放棄するしかないと判断した。必要な書類をまとめるとハイゼンベルクは自転車に飛び乗って妻子が住むドイツ南部ババリア州のウアフェルトを目差した。ハイゼンベルクは自分が連合軍に追われていることに薄々気づいていた。ドイツ西北部から中部にかけはすでに連合軍の支配下に入り幹線道路(アウトバ ー ン)の要所要所では連合軍の兵士が自分を含む戦争責任者や軍属を捕らえるために検問を行っていると思われ、また昼間に移動することには危険が伴うと判断したハイゼンベルクは幹線道路(アウトバ ー ン)を避けて夜の間に自転車のペダルを踏み、昼になるとシュトラスブルグから持参してきたタバコなどと引き換えに仮眠の場所を借りた。途中で連合軍による空襲の被害を受けて焼け跡が生々しい都市を通り過ぎた。ハイゼンベルクには自分がしてきたことは戦争犯罪からはほど遠く、ただ自分はドイツの学問水準を守り抜こうとしただけなのだという強い確信と自負心があった。しかし、連合国によってドイツ全土が占領される前後に、ナチス・ドイツの下で国立研究所の所長を務めた自分を連合軍が捜し求め、尋問のために拘束することは間違いなく、その前に何としてでも南ドイツのウアフェルトにいる妻子と顔を合わそうと、ハイゼンベルクはシュトラスブルグとウアフェルトの間約二百五十キロの道のりを自転車を駆って三日間で走り抜けた。

 

連合軍の進行に伴い、アルソス・ミッションの行動部隊はドイツ各地の研究機関から目ぼしい資料を押収した。連合国間の規約によってシュットットガルト以南の占領と統治はフランスに任せられることになっていたが、アメリカ軍の手の及ばない南ドイツに存在する研究機関にある資料等もアメリカの手中に収めようというのがワシントンDCで総指揮をとる軍事省長官スティムソンの意向だった。そこでハイデルベルグにドイツにおける活動拠点を置くアルソス・ミッションで前年の暮れから行動部隊を指揮していたドイツ語に堪能な軍人のボリス・パッシュは大胆な活動を開始した。

 

パッシュらはシュトラスブルグ郊外やアルプス山麓のハイガーロッホにあったハイゼンベルクの研究所にフランス軍が到着する前につめかけると研究内容を示す書類や物件を全て押収した。そればかりではない。パッシュらはハイガーロッホで物理学者のフォン・ラウエ、ヴィルツ、バッヘらの身柄を拘束し、原子炉と思しき装置を破壊し、その後、世界で初めて核分裂を確認した化学者オットー・ハーンが空襲で被害を受けたゲッチンゲンから実験室を疎開させたというタイルフィンゲンに移動し、期待どおりにハーンを拘束することができた。戦争がたけなわだったころ、ハーンはゲッチンゲンにある国立研究所の所長に任命されてベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所を去っていた。アルソスの行動部隊の活躍はめざましく、フランス軍がアルソスの行動に気づいた時にはドイツの研究機関にあった目ぼしい証拠物件はパッシュらによって分類整理され、ハイデルベルグに駐留するゴードスミットのもとかパリに設置されたアルソスの総本部かのいずれかに送られた後だった。しかしパッシュらの必死の捜索にもかかわらず、ドイツ原子力プロジェクトの最高責任者であるハイゼンベルクの行方はわからなかった。

(続く)

 

【参考】

マックス・フォン・ラウエ (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A8?wprov=sfti1